寄生獣で作者が伝えたかったこと考察!人間は悪魔なのか

原作の漫画終了後、長い沈黙を守ってきた「寄生獣」。実写映画化・アニメ化と展開していますが、原作の熱心なファンも、一度読んだだけの人も、アニメで大ファンになったという方もいます。さて、この作品で伝えたいこととは、一体何だったのでしょうか?

1.この愚かな人間どもめ!

原作者の岩明均さんの話だと、どうも最初はこうした考えがあったようです。

当時はエコなんて言葉もなく、せいぜい地球温暖化や石油資源の有限性ぐらいが話題になっていた程度と記憶しています。

その後、「オゾンホールが拡大することで紫外線の害が甚大なものになる」だとか、減少する熱帯雨林、絶滅していく生物の種について取りざたされるようになりました。

この作品に触れると、多少なりとも「人間としてのあり方」を考えさせられたという人は多そうです。

2.死ねばただの肉

死んでしまった犬をゴミ箱に捨て、

「死んだイヌはイヌじゃない」

「イヌの形をした肉だ」

主人公なのにどうしたんだ、新一!
そう思わせるシーンです。

一方で、人間があっさりと捕食されるシーンも、何度となく登場します。

見ているうちに、「人間が必ずしも生物として優れた存在ではない」と感じてしまいそうです。
また、普段食事で食べている「肉」が、元は生きていたという当たり前の事実を再認識した方もいるかもしれません。

そういった意味では、人間の生物としての存在を、これまでと違った視点で見たり、「(命を)いただきます」という言葉に納得できたり、新たな発見をした人も多いでしょう。

3.他種族と交流することによる可能性

無機質で合理的な考え方をすると思われていた寄生生物。
彼ら自身も、そう思っていたのは寄生生物・田村玲子の言葉からも明らかです。

「寄生生物それぞれが
これほど大きな個体差ーーというより個性を持ったということを
わたしはむしろ喜ばしく思う」

感情などないはずの彼らが、怒りの表情をあらわにしたり、作り笑顔ではなく笑ってみたり。
あまつさえ、寄生生物としての生殖能力を持たない彼らが、『母性』や『父性』を持つ可能性まで示唆されています。
捕食対象である人間に、礼を言う寄生生物なんて、誰が想像したでしょうか。

そして考えてみれば、現実世界で宇宙の世界に飛び立とうとしたり、どこかにいるはずの地球外知的生命体とコンタクトを取ろうとしたりしているのに、この作品では人間と同等、もしくはそれ以上に高度な知能を持つ生物(?)が存在しているのです。

田村玲子やミギーのような個体、そして広川市長のような存在が、より深く結びついたとしたら。

情操面でも知性面でも、作品ではまだ彼らが誕生してからわずかの時間しか描かれていません。

百年後を待たず、わずか数十年後の世界は、もしかすると想像だにしないことが現実化しているかもしれません。

4.人類の天敵との戦い

平凡な高校生だった泉新一が、右手を寄生生物に乗っ取られたことから始まり、敵視するほかの寄生生物との戦いと、家族にすら打ち明けられない苦悩の狭間でもがく物語です。

主題が戦いかと言えば、そうとも言えますし、「生きることそれ自体が本来は戦いだった」ということも含まれている気がします。
人類にとっての天敵は存在していませんでした。

しかし、寄生生物が出現したことで、人間の能力を遥かに凌駕する存在に脅かされます。

本能を忘れ、『生きていて当たり前』であることに慣らされたことに気づかされます。

5.寄り添う

漫画の最終巻である10巻では「寄り添う」という言葉が何度か使われています。
「敵も味方もなく、地球に生まれた以上は、広い意味で仲間である」

一時は憎しみに突き動かされた新一も、全く違う視点、心境にたどり着きました。

改めてこの作品の考察をしてみて、これまで【3.他種族と交流することによる可能性】については考えたことがなかったことに気づきました。

田村玲子のように母性に目覚めた存在が、万物の霊長としての人間のあり方に関わったとしたら。

後の世界では歴史に残るような、偉大なビッグマザーとして、無償かつ公平な愛を教え・与える存在になっていたかもしれません。

また、最後に眠りについた彼が目覚めたら。
果たしてどんな道を見つけたのか、想像してみるのも面白いでしょう。

作品に触れる人による違いだけでなく、改めて触れた時の人生経験による違いなど、様々な楽しみ方がある作品だと言えるのではないでしょうか。

エムキャス